Association of Sophian Teachers of English
上智大学英語教員研究会
Newsletter
第47号    2002年8月31日



 目 次

英語教育の課題
第116回ASTE例会 2002年4月26日 吉田研作 (上智大学)

 教育実習体験記
工藤圭輔
上智大学外国語学部英語学科5年

塚本敦子
上智大学外国語学研究科言語学専攻博士前期課程1年

小学校英語活動の課題
第118回ASTE例会 2002年6月22日 久埜百合(文化女子大学非常勤講師)

上智大学の言語学、応用言語学、言語教育関係のホームページ集

お知らせ
(ASTE 2002年度後期予定)



英語教育の課題―規準と評価を考える

第116回ASTE例会 2002年4月26日 吉田研作 (上智大学)

はじめに

 現在、各教科の評価方法として、絶対評価、という考え方が文科省によって打ち出されているが、この絶対評価、という考え方は、何らかの「基準」に基づいた「規準」がなければできない。勿論、そはは、場合によっては、いわゆる模擬テストなどで見られるように、全国単位で行われるものもあれば、学校単位で決められる場合もあるだろう。
 本稿では、このような絶対評価基準を決める際の決め方について、また、それを基にした評価方法について考えてみたい。

Motivation for Language Policy (Ager, 2001)

 まず、国として言語政策を策定する場合に、その言語政策策定の「動機」について少し考える必要がある。Ager(2001)は、様々な国の言語政策を分析した結果、次の5つの「動機」にたどり着いた。

1) Identity: これは、例えば、ある国における少数派言語話者が、彼らのアイデンティティを保つことができるように、その言語を、例えば、「公式語」として認める、というものである。カナダのフランス語などは、その典型的な例だろう。
2) Ideology: ある国の多数派言語話者が、自らの「イデオロギー」に基づき、少数派言語話者の存在を、あくまでも多数派としての自らの考え方から決めてしまうものである。例えば、第2次大戦中の日本が、朝鮮半島を始めとするアジア全体に対して、日本語あるいは、日本の教育制度を強要したのはその良い例だろう。また、現代においては、アメリカで、English Only 運動が起こっているが、これは、アメリカという、多言語・多民族国家における「英語」の立場を再確認し、全てにおいて英語を優先させる(バイリンガル教育の廃止も含めて)言語政策を求める運動である。
3) Image: これは、自らの存在を世界に認めてもらうための言語政策だと言ってよいだろう。例えば、日本でも、「発信型」の英語教育、ということが言われてきたが、これは、正に、日本という国を、世界に知ってもらうために英語教育の方法論を考えなければならない、という考えに基づいている。お隣の韓国を始めとするアジア各国も同じような考えから、現在、様々な外国語教育政策を模索している。
4) Insecurity: 自らの自立性を保つために、それを脅かすような要因があれば、排除する、という考え方に基づいた言語政策である。例えば、フランスのアカデミーで、フランス語の辞書から英語の外来語を排除する、という動きが以前からあるが、これは、その典型だろう。戦時中の日本でも、外来語を排除する、という運動があったが、それも同じような例として考えられるだろう。
5) Inequality: Ofelia-Garciaという人は、世界に現存する言語を大きなお花畑に例えて、同じお花畑なら、色とりどりの、様々な種類の花がある方が、同じ色で、一種類の花で覆われた畑よりずっと美しい、と言っている。Skutnabb-Kangas(2000)は、現在、世界には約6500の言語が存在するが、ここ100年以内に、その約半分は絶滅してしまうだろう、と言っている。極端なことを言えば、今でさえ世界のトップ10言語を世界の50%の人が使っている、ということから考えると、残り6千数百言語中には、ほとんど「いらない」に等しい言語があっても不思議ではないだろう。そんな中で、今、世界の絶滅に瀕している言語をいかにして「保存」あるいは、「再生」させるか、が大きな問題になっている。日本でも、アイヌ語を今後どうするのか、ということは大きな言語政策上の問題である。つまり、この「動機」は、人間の言語はどれも「平等」の価値があり、その平等を保つにはどうすればよいか、を施策するためのものである。

 さて、言語政策を策定するための5つの動機付けについて見てきたが、ここで問題なのは、日本はこの中のどこに入るのか、ということである。それを考える上で、いくつか、具体的な言語政策の「基準」について見てみることにしよう。

ESLの場合 (ESL Standards for Pre-K-12 Students, 1997)

 アメリカの英語教育は、ESLである。つまり、生活自体が全て英語で営まれているために、習う英語も、既に日常的に経験している英語による生活において、いかに正しく使えるか(意味的・意図的に)が問題となる。そこで、TESOLが発表している ESL Standards for Pre-K-12 Students (1997) を見てみると、次のような目標が掲げられている。

Every year, more and more students who speak languages other than English and who come from homes and communities with diverse histories, traditions, world views, and educational experiences, populate classrooms in urban, suburban, and rural settings…The standards described in this document specify the language competencies ESOL students in elementary and secondary schools need to become fully proficient in English, to have unrestricted access to grade-appropriate instruction in challenging academic subjects, and ultimately to lead rich and productive lives… (pp.1-2)

ここに見られる動機は、「Inequality」だろう。つまり、アメリカにやってきた数多くの外国人の子どもたちが、勉強の上で、また、アメリカで生きていく上で、不利にならないような英語教育を考える必要性が目標として掲げられているのである。

FL in Multilingual Context (Standards for Foreign LanguageLearning, ACTFL)
 同じアメリカでも、英語ではなく、アメリカ人が外国語を学ぶ際の動機付けが次のACTFLの「外国語教育の目的」からうかがうことができるだろう。

Language and communication are at the heart of the human experience. The United States must educate students who are linguistically and culturally equipped to communicate successfully in a pluralistic American society and abroad. This imperative envisions a future in which ALL students will develop and maintain proficiency in English and at least one other language, modern or classical. Children who come to school from non-English backgrounds should also have opportunities to develop further proficiencies in their first language. (Statement of Philosophy)

 ここで分かることは、アメリカという多言語多民族国家においては、お互いが真にコミュニケーションできるためには、英語以外の言語も知ることが非常に大切だという思いである。更に、最後にあるように、英語を母語としたい子どもには、彼らの母語を保持できるようなバイリンガル教育の必要性が述べられているのである。上記の「動機」でいうなら、アメリカ人にとって外国語がどうして必要なのかについての、「Ideology」と同時に、英語以外の言語を母語とする人の「Identity」がその背景にあると言えるだろう。

Plurilinguistic Context (The Common European Framework, European Union)
 次に、今世紀に入り、ヨーロッパに大きな変化がEUの形成という形で起こったが、EUの場合は、メンバー国があらゆる面で平等の立場にあることが前提となっている。そこで、EUにおける言語政策の基本的な考え方を見てみると、次のようになっている。

General Measures
1.To ensure, as far as possible, that all sections of their populations have access to effective means of acquiring a knowledge of the languages of other member states... 1.1 to deal with the business of everyday life in another country, and to help foreigners staying in their own country to do so;
1.2 to exchange information and ideas with young people and adults who speak a different language and to communicate their thoughts and feelings to them;
1.3 to achieve a wider and deeper understanding of the way of life and forms of thought of other peoples and of their cultural heritage...(p. 3)

 これを見ると分かるように、EU内では、加盟各国の出身者んがあくまでも平等の立場でお互い理解し合えるように、母語以外の外国語を学ぶ必要性が述べられている。更に、それぞれの言語を使う人が、自らのアイデンティティを保持できるようにしなければならない、としている。かつてのヒトラー時代のドイツ人(アリア人)至上主義、のようなイデオロギーが二度と台頭しないように、との願いがそこには込められているのではないかとさえ思える。つまり、ここでは、「Inequality」「Identity」そして「Ideology」という3つの動機付けが反映していると言えるだろう。

EFL Context (韓国)
もう一つ、最後に、韓国のケースをみてみよう。韓国は、今、アジアの大国として、世界の舞台に踊り出るべく、様々英語教育政策を行っている。その内容を少し見てみよう。

英語を国際語として位置付け、意思疎通を図るための基本的能力の育成を土台としながら
  1.現代の日常英語を理解して使い、
  2.国際社会と外国の文化への理解と
  3.自国の文化の発展と国力の成長への寄与を目標として、
そのための言語的基礎を整える (小泉「韓国の中等教育」 2000)

 このように、韓国では、まず、国際語としての英語を教えることを明記し、日本の学習指導要領にある「標準的な英語」という曖昧な表現は使っていない。また、単に外国の文化の理解だけでなく、はっきりと、「国際社会」の理解、としている。つまり、韓国の場合は、かなり明確な「Image」動機が反映されているのではないか、と思われるのである。

日本の場合
 今まで、色々な言語環境なるに見られる言語政策の動機付けについて考えてきたが、目標がはっきりしていれば、それぞれの環境において、そこで問題となっている言語能力をどう評価するか、という「規準」が作りやすくなる。目標を達成するために必要な言語的「基準」が明確になれば、それを実現化するための具体的な「規準」を作ることは当然やりやすくなるのである。
 そこで、日本の場合について今度は考えてみたい。日本の学習指導要領には、次のような目標が掲げられている。

外国語を通じて,
1.言語や文化に対する理解を深め,
2.積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り,
3.聞くことや話すことなどの実践的コミュニケーション能力の基礎を養う。(学習指導要領、中学)

 日本の学習指導要領の記述は、非常に綺麗にまとめられている反面、具体性に欠ける点がある。ここでも、単に「言語」や「文化」に対する理解、とか、「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」、「実践的コミュニケーション」などの表現が使われているが、
Ager があげる言語政策の動機付け、という観点からすると、一体どれに当たるのか、分からない。韓国とほぼ同じようなEFL環境にいながら、「標準的な英語」の域を出ることができず、また、「言語」と「文化」という抽象的な域を脱することができていないのである。

21世紀日本の構想懇談会
 そんな中で、2000年に当時の故小渕恵三前首相の私的懇談会として発足した、「21世紀日本の構想懇談会」では、学習指導要領よりも、かなり明確表現を使って、英語教育の必要性について述べている。日本は、現在、国際社会に加われない状態にある。しかし、そのよう『「閉ざされたシステム」は空洞化し、疲弊していくだろう』。そして、国際社会の一員として活躍するためには、「グローバル・リテラシー」(国際対話能力) が必要である、述べているのである。更に、もし日本の英語教育が今まで以上の効果を生まないようなら、「長期的には英語を第二公用語とすることも視野に入ってくる」とまで述べているのである。
 この懇談会の報告書に見られる動機付けは、やはり「Image」だろう。そして、多少本来の意味とはずれるが、現在の日本がこのままだとどうなるのだろう、という「Insecurity」も見られるだろう。

Criterion-based/ Norm-based Assessment
 今まで、何かの評価規準を設ける場合、どうしてもその「基準」となる、目標が明確でなければならない、と述べた。色々な英語の標準テストを見ると、実は、今まで見てきたものと似たような現象があることがわかってくる。つまり、より明確な目的のために作られた、TOEFLやTOEICテストは、テスト内容もそれぞれの目的に合った内容となっている。だから、TOEFLで出題される問題は、アメリカでの大学生活と密着したものだし、TOEICの場合は、仕事などで必要となる英語の内容になっている。しかし、日本の英検は、非常に幅が広いために、なかなか焦点が当てられない内容になっている。特に、語彙に関しては、どのような分野のものが問われるか予測ができない。
 このようなテストを開発する場合、どうしても必要となるのは、次の2つに一つの基準である。一つは、知識的な基準(criterion-based)であり、もう一つは、あることをするために、どれだけのパフォーマンス能力(norm-based)があるか、を見るものである。
 知的基準の場合、例えば、英語を使うために必要な文法能力、語彙力、知識としての語用能力、文章を読むために必要なスキルの知識、英文を書くために必要な文章構成に関する知識、などを見ることになるだろうが、パフォーマンス的基準の場合は、与えられた作業がそれだけ正確に出来るか、ということがフォーカスされる。実際に英文を読む、インタビューなどで実際にオーラル・コミュニケーションをする、何かの文章を読んで、それに基づいて何らかのタスクをやる(例、レシピを読んで、料理を作るなど)、という具合に。

絶対評価は何を基準にするか?
 このように見てくると、目的がはっきりしていれば、その目的を達成するための基準(ここまでの「知識」が必要とか、「ここまでのパフォーマンス」が出来なければならない)を作ることが出来る。そして、それができれば、次に、そこまでの知識を身に付けるためには、まず何からはじめ、次に何を身につければよいか、という「規準」が出来てくるのである。
 さて、今までの議論から、言語政策策定の目標が明確な場合は、そのために必要な「基準」も、それを実現するための具体的「規準」もそれなりに作りやすい、ということが分かるだろうが、問題は、日本の英語教育の「基準」は何なのか、またそれを達成するための具体的「規準」は何なのか、である。英語を学ぶこと自体の目的がはっきりしていないと、「絶対評価」と言っても、どの「基準」をどのような「規準」に従って考えればよいかはなかなか掴めない。
 本稿で見てきた日本以外の国のように、また、TOEFLやTOEICのように、何がどの程度までできれば良いか、というパフォーマンス中心の基準が明確になっている場合は、評価テストの内容は、より、英語の運用力中心のものにできるだろうが、もしパフォーマンス、という観点からの基準が明確でないとしたら、パフォーマンスで言語能力を測ること自体、非常に難しくなる(何ができれば良いかが分からないから)。だから、どうしても、言語「知識」中心の評価方法を取らざるを得なくなる傾向がある(何をやるにしても、「これだけの言語知識は必要だ」という考えが成立するため)。
 今年の春、中学校の評価規準が文科省から発表された。内容的には、学習指導要領を多少具体化したものに留まっている。そのための評価テスト(絶対的規準)も出来た。しかし、まだまだ設問の「内容」よりも、言語要素(文法、語彙など)が評価対象になっている。

直接テストと間接テストの利用
 日本の場合、どうしてもcriterion-based テスティングの考え方を基にした絶対評価になってしまうだろうことは既に述べたが、それでも、同じ言語知識をテストする場合に、直接「知識」を問うテストと、間接的に問う場合とに分けて考えなければならない。直接言語知識を問う場合と間接的に知識を問う場合とで、どのようなテスト形式の違いがあるかを比べてみよう。

1) Direct measuring of ‘metalinguistic’ knowledge
a) grammar tests
b) decontextualized vocabulary tests
c) translation to test knowledge of grammar

2) Indirect measuring through performance (need for concrete situations)
a) interview tests
b) role-playing tests
c) writing tests
d) task-based, problem-solving tests

 よくあるような、文法テスト、(〜は何用法か?とか、時制を一致させよ、とか、能動態を受動態に変えよ、とか、この文を、修飾関係に注意しながら訳しなさい、とか、この単語を入れ替えて与えられた日本語の文と同じ意味になるようにしなさい、というようなもの)は、英語が使えるかどうかを試しているのではなく、言語知識としての英語をどれだけ知っているかを見るものである。しかし、このような知識がどれだけあっても、実際に英語を必要な時に使える保障はありません。
そこで、実際に英語を使って何かをする、という間接的評価法を使って言語的知識を測る方法の法が大切になってくるでしょう。例えば、直接「過去形に書き換えなさい」と言わずに、「最近見た映画で面白かったものについて話してください(書いてください)」とか、「下線部の単語の意味は何か My father prohibited me from taking the train.」と聞かずに「外国に行ったらこんな標識があった。これは何の標識だろう?ここで prohibited とあるが、状況や内容からして、どういう意味だと思うか?」と聞く、というように。インタビューや様々なロールプレー、作文や問題解決型の問題、などを使うことができるだろう。

終わりに
 日本でも、少なくとも単なる「知識」を試す問題ではなく、何らかのパフォーマンス、言語運用が必要とされるようなテスト方式を導入せきだと言ったが、どうしてもパフォーマンス中心の絶対評価の難しさは、実際の言語運用というのは、無限の可能性があるため、より明確は「目標」(何のために英語をやるのか)がなければ、テストの内容を絞り込むことが出来ない点にある。しかし、何時までも単なる知識偏重の評価をしていたのでは、日本の英語教育は益々取り残されてしまうだろう。
 より具体的な目標を立てることは今後の日本の英語教育にとって何よりも大切になってくるだろう。

参考文献
American Council on the Teaching of Foreign Languages (ACTFL). (2001). National standards for foreign language education. Retrieved November 2, 2001, from http://www.actfl.org/public/articles/details.cfm?id=33
Ager, D. (2001) Motivation in Language Planning and Language Policy, Clevedon: Multilingual Matters
Council of Europe (2001). Common European Framework of Reference: Learning, teaching, assessment. Cambridge: Cambridge University Press.
MacNamara,T.(1996) Measuring Second Language Proficiency, London:Longman
Skutnabb-Kangas, T. & Skutnabb-Kangas, T. (2000) Linguistic Genocide in Education -- Or Worldwide Diversity and Human Rights?, New York:Lawrence Erlbaum
Tollefson, J. ed. (1995) Power and Inequality in Language Education, Cambridge: Cambridge
小泉仁(2000)『韓国「第7次教育課程」に見る英語教育―日本の学習指導要領と比較して』『英語展望107』pp. 37-40
『中学校』 (1999) 文部省
『高等学校学習指導要領』(1999)文部省
『21世紀日本の構想』懇談会報告書(2000)総理府


次の二つのエッセイは5月25日に行われた教育実習の事前講義を基に教育実習に参加した学生のものである。なお、25日の講義の担当者は、関典明(成城学園中学)と石川和弘(清泉女子中高等学校)のお二人だった。

教育実習体験記
工藤圭輔

上智大学外国語学部英語学科5年

 6月3日から14日までの2週間、私は自分の母校である明星学園中等部へ英語科目で教育実習に行きました。私は実際に実習を始める随分前から教育実習をどの様に行うか頭の中で考え、ある意味でシュミレーションをたてていたので、今回の実習において一つの課題としては「自分の想像していたものと現実がどのように異なるか、また想像と異なる面に対してはどの様に対処するか」というものがありました。 
 先に今回の実習においての感想を述べてしまえば、「自分が想像していたものと現実との差異は予想以上に小さく、ほとんどが自分の思った通りにうまく行った」という結果でした。その背景としては、昨年末から数回に渡って行われた教育実習事前指導においても私は教育現場の現状を垣間見る事ができたという点、また現在中学校2年生から高校2年生までの計8人の生徒の家庭教師をしている為、いわゆる「最近の中学生や高校生」とコミュニケーションを取る機会が豊富にあったという点もあり、ある意味での予備知識を持つ事ができていた事が大きく影響していたと思います。しかし「予想通り」点が多くあったとしてもそれは必ずしも「いい点」ではありませんでした。というのも私が実習に行く上で覚悟していたのが「授業中に歩き回る生徒がいる」であるとか「授業に集中せずに、眠っていたりお喋りをしていたり、他の事をしていたりする生徒がいる」、「実習生に対して反抗的であったり、失礼な言動をする生徒がいる」といった様な状況が起こるだろうという事でした。そして幸か不幸かその予想はしっかり当たっていました。実習初日、授業見学をしに教室に入った私は予想的中に逆にビックリしました。生徒達は先生が教室に入ってきても気にした素振りも見せずに休み時間の延長で教室のあちこちでお喋りをしていたですから。更には先生が「席に着きなさい」と指示を出しても数人の生徒はそれをほとんど無視してお喋りを続行していました。仕方なく先生がその生徒達に近付き、再び席につくように指示をし、やっと生徒全員が席に着き先生も出席を取り始めました。この間およそ5、6分、思わずその生徒達の面白さに笑顔がこぼれました。授業が始まっても先生の話を聞いているのはごく僅か、恐らく7、8人だったと思います。他の生徒は眠っているか友達とお喋りをしていて、時折その騒音が激しくなってくると先生が「おい、〜〜(生徒の名前)、いいか?」と間接的に「静かにしろ」というメッセージを送ると少し静かになり、しかし暫く経つとまたうるさくなっていく、その繰り返しでした。中には先生が話している最中に立ち上がり教室の中を歩き回る生徒まで出てきました。また授業中であれ授業時間外であれ、先生に叱られても普通の顔をして聞き流している生徒も多くいたほどです。
 こういった状況は実習をする立場からすれば憂々しいものなのかもしれませんが、私は逆にとても興奮していました。何故ならその状況は私が想像していたものとほとんど同様であったし、またその状況に対しどの様に対処するかということも考えていたので、その対処法がうまくいくか、その生徒達に通用するかを見ることが出来ると思ったからです。
 まず私はこの様な生徒達と接する際に一番重要な事は生徒に自分のメッセージをきちんと伝えられる環境、状態を作る事だと考えました。その為には生徒とコミュニケーションを取り、生徒の考え、主張に耳を傾けることが必要になってきます。実際に授業実習が始まるまでに私はさまざまな生徒と交流しコミュニケーションを取り、そして彼らの話に耳を傾け、彼らが何を考えているのか、また何をしたがっているのか等を熟考してみました。もう一つ重要なのは授業を単に「教師が生徒にものを教える場」にするのではなくまず大前提として「生徒達が少しでも楽しめる場」にする事です。その「生徒たちが少しでも楽しめる場」というものを作り出す為に、まず授業時間の中で皆が盛り上がる事が可能になる雰囲気を産み出そうと大きな声で、また冗談なども交えて授業をいました。そうする事で生徒に「この実習生の授業は聞いているだけでも面白いではないか」というイメージを与え、彼らにまず私の話を「聞く」体勢を作らせる様に働きかけました。無論教育実習生という立場から通常の先生の授業よりも生徒達が集中したり、より興味を持ったりするという私の実力とは無関係な要素もあるだろうが、実際に授業実習を始めてみて私は驚きを隠せませんでした。というのも生徒達は私が教室に入り大きな声で「授業始めるよ」と言うと皆素直に席に着いたですから。授業中にお喋りをしている生徒も「うるさいから少し静かにして」と言うと皆ある程度静かになりました。もともと私は授業中にお喋りをする生徒はいて当然で、なくなるものではないと思っています、だから生徒にも「お喋りしてもいいけど、うるさいと授業できないからうるさくはしないで、お喋りするなら静かに」と最初に生徒に伝えておきました。勿論40人近い中学生が50分間の授業の中でずっと静かにしている事は難しく、また暫くするとうるさくなりましたが、私はその度に「うるさいから静かにして」と言って静かにさせました。ただ授業の回数を重ねるごとに生徒達はそれほどうるさくはなくなり注意する事もほとんどなくなっていきました。また前述しましたが、私は授業中によく冗談や面白い事を言って生徒を笑わせもしました。生徒がふざけて変な事を言ってきても、単に無視したり注意して黙れせるのではなく、その発言を出来る限り授業の内容に結びつけるようにした事もあります。こうした対応の結果として生徒達は私の授業を楽しむ様になり、授業にも活気が出て盛り上がった良い雰囲気が生まれました。私の当初の目的としては、生徒に「英語の勉強は面白くなりうる」という事を伝えたかっただけなのですが、生徒の中には以前は英語の授業中は眠っているかお喋りをしているだけだったにも関わらず、私の授業に積極的に参加し、意見を述べ、英語の勉強が楽しいと言ってくれた生徒も出てきました。無論これも2週間だけの言わば「特別期間」の様な実習生の授業だから成し得た事かもしれません、しかしそういった状況であったとしても、英語が嫌いだと言っていた生徒がその英語に興味を持つことが出来るという嬉しい現実を私は目の当たりにしました。
 いくつかの授業を見学して大きく感じた事の一つとしては「多くの場合、先生と生徒との間でしっかりとしたコミュニケーションが出来ていない」という事がありました。先生は「こう説明すれば生徒は分かる」と思って授業を進める訳ですが、多くの場合多数の生徒がその説明を理解できていのです。実習中、数学科の教員の研究授業がありその後の研究会で実習生も発言してよいと言われたのでさまざまな質問、発言をしてみたが、結果私の抱いた印象は「この先生の授業は多少の問題があるもうまくまとまっている、しかしこの授業を理解できない生徒は沢山いるだろう」というものでした。そして後にそのクラスの生徒の何人かと話をすると「あの先生言ってること訳わかんない」という反応が返ってきました。またここで重要なのは、「そういった生徒は質問する事が困難である」という事実です。その理由としてまず一つ挙げられるのが、分からない事を他の人間に見せて質問をするのが恥ずかしいと思う生徒が多くいる事です。更に授業が分からないという生徒の多くは「どこが分からないのか分からない」という状況も要因の一つとして挙げられます。ですからその生徒が授業中に先生に「分からない」と言って質問する事はそう簡単な事ではないのです。私の受け持った生徒の多くもそれまでの英語の授業を理解しておらず、担当教員「分からない人はいつでも質問しにおいで」と言われても「何をどう聞いていいのか分からない」と私の所に代わりに相談に来ました。こうした状況の結果、一度授業が分からなくなった生徒はその後も授業が「分からない」という状況が続き、「授業がつまらない」と感じたり授業に集中できなくなっていくのです。そしてここにもう一つの問題があります。生徒の多くは「分からない事」を深く考えて「分かる事」にしようという努力をしません。その忍耐力が欠落しているようにも見えます。その為に教師の多くは「生徒ができないのはしっかりと勉強しないからだ」という印象を持ち、「自分の授業の責任ではない」という考えすら生まれてくるようです。それに対し保護者達の中には「子供ができないのは先生がしっかり教えていないから」という考えもあります。実習中に父母参観日があり、授業が終わった後に父母達から「うちの子は英語がぜんぜん分からないと言っています。どうにかならないでしょうか。」といった発言が相次ぎました。しかし私が見る限り、そういった生徒はもうすでに授業を聞く事すら放棄してしまっていました。確かにその原因は「授業がつまらない」という要素に帰っていくのかもしれません。しかし授業を理解できていない生徒がいるという事は「教える方」「学ぶ方」両者に問題があると私は思います。だからこそ両者の間のコミュニケーションが必要だと思うのです。コミュニケーションの不足により教員の生徒に対する「人間理解」は低下し、その結果多くの場合自己満足で終わってしまうような、生徒の分かりにくい、つまらない授業が成り立ってしまい、また生徒達は先生に自分が分かっていない事すら伝える事ができずにいる、そういった状況が産み出されてしまうと私は感じました。
 最後に実習自体ではありませんが、事前指導や教育実習のあり方について触れたいと思います。まず事前指導ですが、私は実際に事前指導を受けるまでは「どうせ大して役には立たないだろう」という予想をしていました。しかしその予想に反して事前指導は色々と「現場」の情報が手に入り、また現場の先生方が実習生に対してどの様な印象を持っているのか等教育実習というものを様々な角度から見る事が出来たので非常に有意義なものだったと私は感じました。特に授業観察についての指導は実際に実習先の指導教員や他の教員の授業を観察する際に色々と考えさせるきっかけとなったので非常に有益でした。ただ実際に現場の先生方が生徒にうまく教える為、また興味を持たせる為にどのような事に注意しているか、どの様な考えを持っているか、といった事がもう少し知りたかった。しかし私個人にとって、あの限られた時間の中で睡魔に襲われることもなく興味を持って先生方の話を聞けたという点で、その話の「持っていき方」そのものから様々な事が学べた事が一番大きいものでした。また現状の教育実習のあり方ですが、2週間であれ3週間あるいは4週間であれ、その期間だけで「生徒にものを教える」という非常に困難なプロセスを学ぶというのはあまりに無理な話であるし、またもし教育実習の目的が「単に教育の現場を見る」事であるとしても、それだけで実際に現場の教員になり生徒にものを教える立場になれてしまうというシステムは愚の骨頂であると言えるでしょう。もちろん現状では大学生は教職課程の授業を受け、そこからも様々な事を学び取るという流れになっています。しかし私もすべて大学すべて教職の授業を知っている訳ではありませんが、少なくとも私が知る限りでは教職課程の授業の多くは有用性というものが乏しく、また「教え方」を教える立場の教員が「教え方」を知らないという憂々しき状況がまかり通っています。この現状を変えない限り、少し大げさな物言いですが、現存する教育問題を解決する事は不可能なのではないか。それ教育実習を含め、教職課程を受けてきた結果抱いた思いです。

塚本敦子
上智大学外国語学研究科言語学専攻博士前期課程1年

 6月の前半2週間、高校2年生の英語IIとHRクラスを担当させていただきました。おりしも学校中がワールドカップに熱を上げている最中、その興奮に便乗するように私も熱い2週間を実習校にて経験させていただきました。自分の想像通り素晴らしいと思った点、また自分の理想と現実の間のギャップを知り悩んだりした点などさまざまな経験をさせていただきました。

教師としての愛情表現
私は母校で実習をさせていただいたのですが、学生の頃は「厳しい先生だなあ」という印象をもって恐れていた先生も、どの先生も、たとえ方針や表現の方法に差はあれ、つねに生徒の立場にたってものごとを考え、指導されていらっしゃるのだということを実感しました。ことばでの表現ではなくても、HRを通して、また授業を通して先生は365日愛情を子どもに注ぐ仕事なのだと感じました。

<教授内容そのもの>
 授業を氷山にたとえるならば、50分という授業の表面に現れるものはごくごく一部で、その水面下では膨大な量の教材研究と、深い生徒への心遣いがあると思いました。私は読解の標識となるdiscourse markerについて指導したのですが、その際に教科書以外で適した例文を紹介しようと思い、5冊位の本を参照してみました。しかしなかなか自分の思うようなものが見つからず、ついに困り果てて指導教官の先生に相談にうかがいました。すると先生は「それは見付からないはずですよ、テストの問題1つを選ぶのにも僕は20冊位の本から探しますからね」とおっしゃられ、それを聞いた時にはまさに頭の下がるような思いがしました。
 また、先生方は生徒が何を知っていて、何を知らないのかについて、単語から文法表現に至るまでよく把握していらっしゃるだけでなく、その指導学年の認知レベルまでしっかり考慮に入れて授業をされているということも学びました。高校を卒業してからもう6年たった私にとっては、既に様々な英語事項を習得した状態で、教えるべき教材をいざ高校2年生の目線に戻して見直してみることだけでも本当に難しい作業でしたが、それをさらに17歳という年齢でも分かるような言葉でパラフレイズすることはそれ以上に苦労することでした。例えば、文の構造を説明する時に「2文目以降の文章が1文目をサポートしていて…」と深く考えずに使った「サポート」という語が、高校生には分かりづらいという指摘をいただき、はっとさせられました。それ以降はしゃべる一つ一つの言葉にも注意を払うようになりましたが、いざ分かりやすく日本語で言い替えようとしてもなかなか適切な表現が出てこないという経験が多々ありました。英語を教えることが仕事であっても、日本語ということばの豊かさが最終的にものをいう職業なのだということを痛感しました。難しいことを難しいことばで教えるのは簡単ですが、教師として大切なのは、難しいことをいかに簡単にかみくだいて生徒の心に届かせるか、ということだと思いました。

<生徒とのやりとりにおける先生の心遣い>
私が感じたことは、教師は、「知識を伝える」という使命と同時進行で、生徒とのインターアクションをとおして「私はあなた方を大切に思っています」というメッセージを伝えている必然的に担っているのだということです。例えば、発問というごく短い活動も、適切に行われるためには、経験や知識もさることながら、非常に深い生徒への配慮が必要だと思いました。英語が苦手であったり、クラスで小さな思いをしている生徒にレベル以上の発問をして答えられず恥ずかしい思いをさせるよりも、open-end形式の簡単な質問をした方がよいでしょうし、また教師自身は無意識でランダムに指名しているつもりでも、たまたま結果的に一度も名前を呼ばれなかった生徒がいたら、その生徒は疎外感を覚えてしまうかもしれません。また、後ろまで届く大きな声で授業をするという当たり前のことも、その意味をよく考えれば「後ろにいるあなたにも私は授業をしているのですよ」という気持ちの表出であり、同じように、アイコンタクトをとりつつ話すことは「相手を認める」ということの証なのだということを、授業をする身に立ってはじめて気がつきました。
 先生の心遣いが授業に現れる、ということは、自分が中学1年生で英語を大好きになるきっかけを与えて下さった先生の授業観察をした時に一番感じたことでした。自分が学生だった頃とは少し違う方式で、先生は中学1年生にreferential活動としてゲームを導入されていました。ゲームは、楽しいけれども勝者と敗者が出てくるという意味では少し難しい活動です。しかしその先生は、一番になったペアに拍手を送ることはもちろんのこと、最後まで残っていたペアの生徒にも「最後までやっていた二人は、一番たくさん英語を使って練習をした人たちです。みんな拍手を送りましょう!」と労い、あたたかく受け止めていらっしゃったのに深く感動しました。

教育実習生として
このように、実習の2週間は、非常に充実し、やりがいのあるものでした。と同時に、常に気をはりつめた2週間でもありました。これまで、学生という立場で好きなことを学び、気の合う人と付き合い、自分の個性とペースで行ってきた自分が、社会の一員(実習生なのでまだ半分学生ですが)としてふるまい、指導する役を期待された時、自分はまだまだ精神的に準備不足だということを感じました。例えば、学生の立場であれば、掃除など集団活動でさぼっている人がいても「仕方ないな」と見過ごしたり、代わりにやったりしていたことも、教師として同じ行動をととれば、それは無責任な行為であるということです。教科指導も勿論大変なことですが、HRや掃除、授業のやりとりを通しての生徒とのコミュニケーションでは、まさにこれまでの自分の人生観や教育観が試されているような気がしました。「平等にふるまうとはどういうことだろう」、「本当の優しさとは何だろう」ということを改めて考えさせられました。

ASTEの事前指導
ASTEの例会兼教育実習事前指導で関先生と石川先生からいただいたお言葉は、実践の場において本当に助けとなりました。「学びつつ教え、教えつつ学ぶ」ということは、特に、教育実習生としてはまさにその言葉通りであったと思います。また、発生した問題点についてどのように対処するべきかについて、「責任は100%生徒でもなく、また、   100%自分だと思わず、半分半分くらい」という主旨のことを関先生がおっしゃっていたことが記憶にありますが、それが大変救いになりました。一生懸命授業の準備をして、できる限り大きな声で授業をしても、後ろの席の方でどうしても眠ってしまう生徒が数名いて、はじめは「ひとえに自分の授業がつまらないからだ」と悩み、落ち込みもしました。しかしこの言葉を思い出すと少し気分が楽になったような気がしました。とはいえ、いかに生徒が眠くならないように授業をするかについては、display活動一辺倒でなくreferential活動を取り入れたりするなどして工夫しなければ、と今でも反省し、改善していきたい点でもあります。また、石川先生のおっしゃった「緊急事態を含め、教育実習において起こる思いがけない出来事への対処方法を考えて臨みましょう」という点についても、非常に参考になりました。さきほどの居眠りのことも然りですが、設備面や生徒の反応など、色々と事前にシミュレーションしておくことで授業そのものに落ち着きと自信をもって取り組むことができたと思いました。もう一つ、時間配分について、クラス別に実際の目標時刻を書いておくとよいという関先生のお言葉がありましたが、それの応用版(?)で、ストップウォッチを携帯しておくと更に安心して授業ができることに気付きました。
 2週間の間、生徒とのやりとりを通して自分の気持ちや教育に対する考えを何度も意識化する機会をもつことができましたし、また「自分は教師に向いているのだろうか?」と、一つ一つの具体的な出来事を心に浮かべながら考えることができ、非常に意味深い教育実習をさせていただいたと思います。母校で輝きつづけていらっしゃる先生方を見て憧れ、また吉田先生、関先生、石川先生をはじめ、ASTEの先生方にたくさんの示唆をいただき、改めて教師という仕事の大きさと素晴らしさを実感させていただきました。本当にありがとうございました。


【小学校英語活動の課題】―子どもが第2のことばと交わる時

第118回ASTE例会    2002年6月22日     久埜百合(文化女子大学非常勤講師)

1.文部科学省は何を求めているのか
1992年,当時の文部省は大阪市の小学校2校と、その卒業生が進学する学区内の中学校1校を英語学習の研究開発校に指定した.その後,徐々に数を増やしながら最終的には64校が参加して,小学校に英語活動を導入することについての研究を一段落させた.現在では,教科としての英語,小中高の連携,週当たり授業回数や年間授業時間数を増やした場合の効果,高学年の文字指導などのテーマを中心に,実践研究が続けられている.
 しかし文部科学省は学習指導要領の中で,「小学校英語活動」の目的について,「言語としては教えない」と言い,その言語がもつ文化に「慣れ親しませ」ながらコミュニケーションを取ろうとする態度を育む、という点以上にその指導方法などを具体的には語っていない.子どもたちは限られた経験の中でも「慣れ親しむ」活動をすれば,必ず何かを吸収する能力を持っている.そこを踏まえた英語活動の指導法を考えなければいけないはずであるのに,従来の英語教育観(例えば,机に坐らせ,単語の意味を調べさせ,内容を日本語で説明させるような授業)に基づいて議論がされているように思われてならない.しかも,わけがわからないままに,英語を小学校から入れる方がよいという雰囲気だけが浸透し,「何を教えなければいけないのか」「小学校で英語活動を経験した子どもが中学に入った時に困らない中学校における英語授業のあり方とはいかなるものなのか」といった問題に全くふれられずに,時だけが流れ去り,その状態に慣れっこになってしまっている.研究開発校でまとめられた記録は,子どもの態度面の肯定的変容を評価し,英語活動推進派の思惑通りの内容になっている.しかし本当にそれでよいのか.現場では首を傾けたくなるような事態が顕在化しているにもかかわらず,「それはそれでよい,現実なのだから」と現状に目や耳をふさいでしまっている.

2.公立小学校の「英語活動」の現状―公立小学校の外国語学習環境
「小学校英語活動実践の手引」を書いた時に,「総合的な学習の時間」で可能な英語体験は「英語学習」ではなく,「英語活動」であろうとの判断から“英語活動”とした.英語が小学校に入ったとはいえ,質量ともに問題が多い.質的には,教員の手配が遅れており,量的には「総合的学習の時間」の中で授業時間の確保が難しい.年間30回授業を確保しようとする動きもあるが,それでも,実質で年間22.5時間の英語活動にしかならない.岐阜県のように「ほぼ全域の小学校で国際理解教育の一環としての英語活動をしている」地域でも,実態は年1回であったりする.また,ALTが配置されて週2回の授業が確保されているところもあり,地域によってばらつきがある.
1昨年の調査では,英語活動を実施している学校の93%が1年生から導入しているという結果が出ている.英語活動導入の低年齢化が顕著である.
指導内容については,文字指導を含めたもの(例:Do you have a pen?を教えるのにyou have a penを板書してから,Doをつけて示すというような教え方)もあれば,音声のみの会話を教えているところもある.会話指導と言っても,定番となっている買い物ごっこを例に取ると,How much? 50 yen. Here you are. Thank you.というだけのものもあり,内容的にもっと検討したほうがよいと思われるものがある.しかしそれを疑問視した途端に「でも言語として教えないのだから,指導法を云々するには当たらない」という声がかかり,それ以上議論を深めることができない.高学年の指導法も問題となってきている.特に数年継続してきている学校では,3年生で始めて4年目になった6年生の指導内容を再検討する段階に来ている.Baa, Baa, Black Sheepの歌を6年生で歌わせるわけにはいかないはずだ.高学年の指導法についてのノウハウを持っている人が限られていて,それが伝わっていない.この現状を救うために「えいごリアン」(NHK学校放送)がある.これは,英語に不安をもつ担任でも,1人でなんとか英語活動ができるようにと考えて作られた番組である.ホームページも内容豊かで.国際的な賞をもらうほど高い評価を受けている.今後は情報教育と連携させながら英語活動を定着させていければよいと考えている.
文部科学省は2001年800万の予算をとり,600人を募集して,5日間にわたり,毎日10:00〜16:30の教員研修講座を3回開いた(東京2回,大阪1回).教育委員会単位で指導主事や小学校現場教員を出張参加させるケースがみられた.結果的には,540名が参加したにとどまった.文部科学省が小学校英語活動にかける予算は少なく,IT教育にかける予算と比べると,3桁の違いがあるほどである.それでも今年は研修講座を4回に増やす予定である.
最近顕著なのは、この研修から派生して、県単位の研修講座も開かれるようになったことである.子どものために自分で勉強してがんばろうという気持ちになっている先生が多く,熱気を感じる.先生方は皆,過去に受験準備のために英語の勉強にも真面目に取り組んできている.咄嗟に英語を使うときに間違えると自分を責めてはいるが,英語の力を伸ばす素地は持っていると思う.実際,回を重ねて授業を参観させていただくと,先生が英語の力をつけてきていることを強く感じることが多い.「英語活動」に対しもっと希望をもって進めていってよいというのが最近の感触である.
そこまで皆の気持ちが動いてきている時に,大津由紀雄・鳥飼玖美子両氏が小学校英語活動に警鐘を鳴らす本を出した(「小学校でなぜ英語?」岩波ブックレット).そのなかで指摘していることは,誰かが言わなければならない問題ではあると思う.しかし,警鐘を鳴らされておいて,ではどうするのかという提言がない.ここまで来てしまっている英語活動を本当に止めさせることができるとはとても思えない.ここまでが現状報告である.

3.子どもが第2の言語を習得する能力
しばしば「英語だけで授業を進めてよいのか?日本語に訳さなくていいのか?」といった質問を受けるが,子どもが英語への対応能力を持っていることを知ってほしい.例えば,コンピューター用語がよく使われる最近では”delete”と1人の子どもが言えば別の子どもがそのボタンにさわるというように,”delete”ということばを言えなかった子どもがそのことばを共有できる.大学生であれば,すぐに日本語に直して言ってほしいと思うところ,子どもはたくましく推理できる.
 1970年代終わりに,英語学習を始めたばかりの成城学園4年生に,英語だと思うことばを絵に描かせて語彙調査をしたところ.約1200語が集まった.これを子どもの集団としてのlearnabilityと考えている.その当時「ゆとりの教育」ということで授業時間数が削減され,英語学習開始学年が4年生からとなった.子どもの授業での反応が変わり,教室で出来る内容も減ってしまったことは事実であるが,その状況の中でも子どもは”I living in Tokyo” “I can swimming”と,外来語でなじんでいるliving roomやswimming poolから類推してことばのやり取りを楽しんだ.これが習得途上にある子どものことばの使いまわしである.中学・高校で期待される習得のレベルではないが,それだけ幅広い言語活動が小学校では可能である.
 アメリカなどで報告されている第2言語習得過程が日本の学習者にも起こっている,従って日本でもそれを応用できるはずなのに注目されていないのは残念でならない.例えば,nativeの子どもはThursdayと言えるようになる前に[th] を[f]に置き換えて発音するが,同じことを日本の子どもも経験していく.この習得プロセスを知らない母親がそれを聞いて,「サースデーでしょ。」と修正すると,途端にSurthdayになってしまう.授業で子ども達が活発にinteractionしており,彼らの英語での対応能力が高まってきているときに,家に帰ってきた子どもに母親が「何を習ったの?」と訊ねると,子どもは明確に答えられず、不安になり、意欲をそがれてしまうことが多い。授業参観していてすら,子どもの習得のプロセスがなかなか理解されない.文献に述べられ常識としてわかっていることをなんとか周囲に伝え,我々の教室での努力が足を引っ張られないようにしたいものである.
 別の例で,「えいごリアン」に登場するミニ・ユージの英語も参考になる.ミニ・ユージは子どもなので,英語にたいする知識を全く持っておらず,色々面白いことをしてきてくれる.しかし大人がそれを見ると,「未発達だ」「わかっていない」という感想で止まってしまう.ロケのスタッフも「なかなか覚えてくれない.覚えてもすぐ忘れてしまう」と心配する.英語の習得の道筋について大人が今まで思っていた常識を捨て,子どもの習得能力をもっと知るべきである.それを踏まえたうえで,小学校の各段階でのことばの獲得のプロセスを知り,最終的に5,6年生までに何をしなければならないか《到達目標》と,現実の学習環境に即した《指導目標》を考えるべきである.
 そうして初めて,中学校の先生に「小学校ではここまではできる」「だから,中学ではこういう力を伸ばしてほしい」と言える.現状ではまるで小学校で何もなかったように,中学校の英語の授業が1から始められている.児童英語を学んだ学生が中学校の教育実習に行ったときも,先生に「小学校でさせたことは身についていないから、きちんと教えなければいけない」と言われたそうだ.中学の先生は今までの教科教育法で鍛えられているので,小学校でのやり方を邪魔に感じているのかもしれない.
 小学校英語の成果は中学校のペーパーテストでは測れない.This is an old car.の代わりにThis is a old car.と書いてしまう.それしかその子どもの英語力を表現することができないペーパーテストなら,小学校英語未経験者と平均点が同じになってしまってもしかたがない.しかし,表現意欲は旺盛なので,綴りの間違いやiのdot, tのbarの付け忘れがあるものの,与えられたリストの中から文を作るような活動には嬉々として取り組むはずだ.この発表意欲を評価してもらえないのが残念である.
 もう1つの例として,湾岸戦争のFENニュースをたまたま授業で聞かせたときの6年生の聞き取る力についてお話したい.自分がたまたまラジオをつけっぱなしにしていたら子どもが興味を示し,聞き取った単語を言い始めたので,授業案にはなかったことであるが,あわてて紙を配り,絵でもカタカナでもよいからからと言って,聞き取ったことを記録させた.まず固有名詞,次に内容語である名詞,数字(例:月日)を聞き取っていた.日頃きちんとわかりたいという態度を示すような子どもは,This is… I am…と機能語も入れて文を書いていた.Bush大統領が話し始めたこと,newscasterに変わったことなどもわかって記録していた子どもがいた.子どもの聞こうとする力は,育て方次第でかなり伸ばすことができると思う.

4.子どもの習熟度評価・教師の授業評価
 現場の先生方は即効性が上がってくるものを見届けたいという気持ちが強い.そのために口頭によるoutputで授業を進めようとする.そして言える,言えないで評価をしてしまう.「大きな声で言えた」「誰ちゃんは何回も手を上げて発言していた」というようなことを授業のたびに“他己評価”させているのを見たことがあるが,辛い思いをした.友達同士褒めあっているけれど,子どもは人にどう言われるか,誰を誉めようか、と気にしながら授業に参加しているのだろうか.自分が褒めてもらうことに神経を使って参加しているのかと思うと,やはり,そのような評価法はおかしいと言わざるを得ない.
 先生が,授業中に示す子ども達の小さな変化を見届けることが大切である.めまぐるしく変化する個々の子どもの習得の様子を記録に残すことは難しい。むしろ,一人ひとりの子どもが色々な場所で時期をたがえて見せる変化をポートフォリオにファイルして記録することが習得のプロセスを分かりやすくする。また、全体の事例をあげて、自分の授業がどう変っていったかを記録しておくことで,評価の内容が高まっていくと思う.

5.子どもの習得プロセスを踏まえたシラバスの選定について
【質疑応答より】
1) Grand Designを呈示して,線路を?切り換えていかなければならないと考えているか.
 Grand designを呈示するためには,小学校教育課程における「英語活動」の位置付けについてのコンセンサスが必要であり、また、指導者の養成が必要である.今動こうとしている全国30万を超える小学校の先生にどのようにアプローチし,仲間になってもらえるかがわからない.またそのためには,良い教材が充実していなければならない.
 シラバスを作るためには,子どもがいかに外国語としてことばを学ぶかを観察していなければならない.子どもは胎児として母親のお腹の中にいる間に,ある言語刺激をinputされる.生まれてからはそのinputをもって第1言語にふれていく時期(喃語期,一語文の時期)がある.そこのところを全く無視して,英語では単語や文をすぐ教えようとしてしまう.一昔前.中学校で英語の授業が開始されたときには,その大切な時期の言語的経験を無視して形(form)から入って,This is a penと教えていたものだ..そのような教え方では,formを理解できても英語の使い方はわからない
 小学校の英語活動でも1・2年生の頃に, L1(母語)の習得が始まった頃の言語操作を、たとえartificialであっても経験させるべきだと思う.それを続けていくとself-centeredな3,4年生の時期に自分のことについて言いたいことを言い,友達が言いたくなって言っていることを聞いていられるようになる.4年生後半には、ことばへのawarenessを高めていく時期が来る.その時期を逃さず指導し,高学年になったら5,6年生にふさわしい膨らませ方をして内容を選択していく.それがシラバスになっていくと思う.内容については個人差が出てくるところなので,子どものことをよく知っている担任がそれぞれの子どもの得意な他教科の内容や学校生活の中でうまくできることなどを考慮にいれて決定するとよい.そして5,6年生の精神発達段階にふさわしい言語体験をさせるようにして,英語運用能力を高められる学習環境を整えていくようにしたい。そうすれば,中学の内容を薄くしようとしている動きについても心配する必要がなくなる.中学1年でHello. How are you? を再度する必要はなくなるし,高校のoral communicationで行なう挨拶の練習もしないですむだろう.
 子どものことばへの気付きということについては,現在も子どもたちから教えられることが多く、反省の連続である.例えば,次にようなinteractionは3年生にならなくてもできる.You have a nice bag. What do you have in your bag? A magazine? Can you guess what she has besides the magazine? (She has a purse.) Do you have a purse?
「今度はあの人がpurseを持っているか訊いてみようか」と言ってactivityを広げていくと,必ず言っていいほど,「最初に何て言うの?」と訊いてくる.子ども本当わかっている.音の固まりとしてDoyouhavea purse?と言えばよい.ただ日本語のように「purse 持ってる?」という語順では聞けないこと,英語には,最初に「音の固まり」があることを教師と確認したくて、「最初なんて言うの?」と尋ねるのである.それが子どもの中に起こることばへの気付きだと思う.こどもは音の固まりで言うとすぐ再生できるが,1語1語切ってDo −you−have−aと言うと,音を変えてしまい,間違いに聞こえるようなことが起こる.
 似たような経験をミニ・ユージが「えいごリアン」の番組でしていた.アメリカ人からダンスを習うミニ・ユージが,指導者の”Tap ・your・ foot.”と1語1語丁寧に話す英語をどうしてもうまく真似できずに”Chap fyour yoot.”と言っていた.そこで自分がそのアメリカ人に代わってTap your/ foot.と2拍子で言うように指示したら一発で言えた.その時はロケに行っていた人もびっくりした.
 このように英語音の流れを守って中・高校で言語習得を進めていく指導ができれば、音リズム流れなかで本読みが楽にできるようになるし,語学力も上がるだろう.
2) 評価するものが見えにくい時期を含めたシラバス,或は見えにくいことを我慢できるような手引きがあれば,まわりもあせらないのではないか.質問の意味がわかりにくいので,私が苦しがっている,と受けている意味もわかりにくいのですが。

指導内容が明らかになるようなシラバス選定が指示されれば,「英語活動」を指導する教師も焦らないのではないか.如何でしょうか。
そこのところが小学校英語教育関係者にとっても一番明確にし難いところである.しかし、子どもと授業をしていれば,これほど自明なことはない.我々は子どもたちの学習を容易にするために,子どもたちを守らなければいけないのだが,大人が教えやすい方法がまだ影響力をもっている。世の中の人が求めているものは,例えば ”I like apples. I like peaches. I like bananas. はい,次はdon’tですよ. I don’t like ….”という練習をさせる英語教育である.その様子を見て「子どもはかわいいわよね。何でも練習して,繰り返しを厭わないから。」と言う人がいるが,それは子どもにとって気の毒なことである.
 母語習得中の2歳児が片言しか話せなくても,それは当たり前でだれも心配しない.3,4歳で口答えをするような時期に言い間違えをしても,そのまま見逃していく.ところが英語になると最初から”I have book.”とaが抜けたことを問題にする.もっと皆がどのように言語習得を経験してきたかを理解できるとよいと思う.例えば,自分が”Hello. How are you?”と英語活動が大好きなダウン症の子どもに挨拶すると,聞き覚えた通りに”Fine, thank you. And you?”と言って自分を抱きしめてくれたり,握手してくれたりする.それが本当に自然に起こる.言語は自然な生理現象であるのに,一般には即効性を求め過ぎている.授業でわざとらしいジェスチャーを教えて,I don’t know.と言わせたりするのを見ることもつらい.指導者が日常的な生活の中で英語を使う経験が乏しく、英語に対してわざとらしい触れ方しかしておらず,子どもに自然に英語に触れることがどんなことなのかということを伝えそこなっているのかもしれない.
 言語というと日本語も入るので,英語と明記しました。

以上

(文責:佐藤令子  田園調布双葉小学校)


上智大学の言語学、応用言語学、言語教育関係のホームページ集

1)上智大学のホームページ
http://www.sophia.ac.jp/

2)上智大学大学院応用言語学研究会 HOME PAGE
上智大学の大学院で応用言語学を専攻した卒業生、または現在専攻している学生による HOME PAGEです。言語学、言語教育、応用言語学に関する関連サイト、短い記事や論文などが沢山載っています。興味のある方は是非一度立ち寄ってみてください。
CALPS HOME PAGE: http://www.ne.jp/asahi/calps/home/index.htm

3)上智大学外国語学部英語学科 HOME PAGE
英語学科のホームページには英語学科で学べる専門分野についての紹介が各分野担当教員のエッセイの形で紹介されています。(上智大学の購買部でも買えます)
http://133.12.37.57/fs/eigo/eigo.htm

4)上智大学外国語学部言語学副専攻監修 「言語研究のすすめ」
語学の色々な分野を紹介したエッセイ集です。(上智大学購買部でも買えます)
http://133.12.37.57/fs/fukusen/gengo/gensusu.htm

5)上智大学CALL言語学習ホームページ
http://www.call.sophia.ac.jp/learn/

6)上智大学大学院応用言語学研究会
大学院応用言語学研究会のホームページです。院生が調べた論文の要約、そして、研究会で実施した研究報告等が読めます。
http://www.ling.sophia.ac.jp/applied/

7)英語学科のBritto先生が集められた英語学習サイトの宝庫!!
http://pweb.sophia.ac.jp/~britto/weblab-e.html

8)上智大学国際言語情報研究所(SOLIFIC)
http://solific.ling.sophia.ac.jp/

9)吉田研作のHome Page
http://pweb.sophia.ac.jp/~yosida-k

10)応用言語学交流会
首都圏の大学院で外国語教育や言語習得を専攻している大学院生同士の交流会です。
http://members.tripod.co.jp/kouryuukai/


お知らせ

ASTE 2002年度後期予定

第119回例会
タイトル:公立中学校の選択英語における文化発信型授業実装
講師:谷内 正裕(慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科)
日時:2002年10月26日(土) 3pm〜5pm
場所:上智大学6号館 312室

第120回例会
タイトル:「これからの時代が求める英語教員の資質」(仮題)
講師:井上克彦(神奈川県立ひばりが丘高等学校校長)
日時:2002年11月16日(土) 3pm〜5pm
場所:上智大学6号館 311室

第121回例会
ディスカッション:変わり行く日本の英語教育
司会:吉田研(上智大学)
日時:2003年1月25日(土) 3pm〜5pm
場所:上智大学6号館 311室

ASTE 事務局
102-8554 東京都千代田区紀尾井町7-1
上智大学外国語学部英語学科
吉田研作研究室
TEL: 03-3238-3719
FAX: 03-3238-3910
e-mail: yosida-k@sophia.ac.jp

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